今日の礼拝で語られる主イエスの言葉は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」たとえ話です。
神学者P・Tフォーサースはその著書「祈りの精神」の中で、粘り強い祈りについてこのように言いました。
「われわれの祈りは「み心がなりますように」ということばでいつも終わるかもしれない。しかし、その言葉で始める必要はない。キリストが執拗な祈りを強調されたことを記憶すべきである。粘り強い祈りは毅然とした信仰の回復を助ける。・・・われわれはあまりにも早く「み心がなりますように」と祈りやすい。しかし、あまりにも簡単に事態を神の意志として甘受することは、柔弱(にゅうじゃく)や怠惰を意味するのである。神の意志に打ち勝つほどに祈ることが神の御心であり、神のより高い意思の実現を目指して頑強に粘り強い祈りを捧げることが、さらにみ心にかなうことなのである。
・・・「み心がなりますように」それは神の意志が実現されてゆくことに対して、人間は何らの反抗も反対もなしえず、ただ喜んでそれを受け入れねばならないという意味なのであろうか。もっと積極的な意味があるはずである。すなわち、人間は積極的に神の意志を行為し、助け、神の意志を持って自分の意思の全内容とし、祈りにおいてあらゆる意思の可能性を、神の意志に注ぎ出すという意味ではないだろうか。神の意志が実現され、神の国が成就することは、われわれが心から切望していることである。そして神の国も神の意志もこの切望なくして実現成就されないであろう。キリストにとっては神の意志は慰めである、喜びであったばかりでなく、彼のパンであり、水であり、力の源泉、働きの真髄であったのである」
諦めずに祈り続けることこそ、まさに救いそのものであり、慰め、力の源泉なのです。